これは”真実の物語”である。
ホテル・ルワンダ HOTEL RWANDA
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HISTORY
 現在のルワンダの地は、元来、様々な民族が混在して暮らす領域であった。大湖地域の肥沃な大地の中で、農耕あるいは牧畜に重きをおく生業集団が現れ、それらが後に「フツ族」「ツチ族」とよばれる民族アイデンティティーを形成していくのは、18世紀以降の王宮の影響力の拡大に伴う。1860年にツチ族の王ルワブギリが誕生するとその階級分化はますます激しくなった。ツチ族は、政治的、軍事的、そして経済的にも強い力を有するようになる。

 1895年にルワブギリが死亡すると王朝は混乱し、力を失った党派のリーダーたちは前年にルワンダを訪れていたドイツ人に保護を求めた。1897年、ドイツは総督部を設け、ルワンダの間接統治に着手。ドイツの後ろ盾を得たツチ族は、内部闘争とフツ族への支配を続ける。

 第1次世界大戦後、国際連盟はルワンダを戦利品としてベルギーに与えた。国家としてまとまっていたルワンダを分裂させるためにベルギーが利用したのはフツ族とツチ族の容姿の差。黒い肌に平らな鼻と厚い唇、そして四角い顎をもつフツ族に対し、薄めの肌に細い鼻、薄い唇に尖った顎と、よりヨーロッパ人に近い容姿のツチ族※をベルギーは経済的にも教育的にも優遇。1933〜34年にはすべてのルワンダ人をフツ族、ツチ族、そしてトゥワ族に分類し、人種が記されたIDカードまで発行する。ほとんどのフツ族とツチ族はそれでもまだ良好な関係を保っていたが、小学生にまで人種差別の思想がたたきこまれていくうちに、かつて統一されていた国家は急激に崩壊していった。

 1950年代になると、国連からの圧力もあり、ベルギーはルワンダに民主的な政府を作るべく改革を始めるが、ツチ族の伝統主義者たちはそれに反発。ベルギーは1959年にフツ族の反乱を後押ししてかつての盟友を権力の座から追いやった。1962年には選挙が行われ、ベルギーからの独立とフツ族支配へと進んでいく。フツ族のジュヴェナル・ハビャリマナ将軍が1973年に軍事クーデターを起こして大統領に就任し、自党以外による一切の政治活動を弾圧。ルワンダを改革するようにとの国連の圧力に1990年に屈するまで圧政を強き、国内には無力と腐敗がはびこった。同1990年、ルワンダ国外に亡命していた主にツチ族中心のグループがルワンダ愛国戦線(RPF)を結成、ウガンダ側からルワンダに侵攻して内戦が勃発した。

 1992年にハビャリマナ大統領はRPFと和平への話し合いを始めるが、フツ族至上主義者たちはこれを裏切りと捉えた。1994年4月6日、ハビャリマナ大統領とブルンディの大統領を乗せた飛行機は撃墜される。大統領の側近の急進派による暗殺という説もあるが、彼らはそれをRPFの仕業にすりかえ、同夜、あらかじめ計画されていた政権内のツチ族および穏健派フツ族の高官たちの処刑が始まる。その後3日間で政権内のあらゆる階級のツチ族やフツ族穏健派も処刑されるが、それだけでは終わらず、"インテラハムェ=共に戦う者"として知られるフツ族の民兵グループが国中に繰り出して殺戮を開始。3ヶ月もの間、阻むものがいない虐殺行為はルワンダ全土に恐ろしい勢いで広がっていった。赤十字の概算では100万人が殺害されたにもかかわらず、国連は平和維持軍を2500人から270人に減らしてしまう。

 ウガンダから侵攻したRPFが首都キガリを制圧したことで、1994年7月に大虐殺は終わりを告げた。フツ族至上主義者のほとんどはザイール(現コンゴ民主共和国)など国外へと逃亡した。  大虐殺の間、300万人が他の国へ逃れたことで世界最悪の難民危機が起きた。その時になってやっと西側諸国は反応し、人類史上最大の救援活動を1996年の3月末まで展開させた。その後まもなく近隣の数カ国で紛争が起きたことがきっかけで、難民のほとんどは1997年までにルワンダへ戻ることになった。

 大虐殺後、挙国一致政府が樹立され、2000年にRPFの元リーダー、ポール・カガメが暫定大統領へと昇格。その後2003年のルワンダ初の普通選挙でカガメは正式な大統領として選出された。国連はルワンダ国際刑事裁判所を設立し国外へ逃亡した重要戦犯の裁判にあたり、ルワンダ国内では村落から各層の地方行政レベルで、ガチャチャと呼ばれる民衆裁判を行い、大虐殺に荷担した約8万人の裁定を委ねている。

 2003年までには、一切の民族別証明を排除した改革と教育プログラムが実施された。フツ族、ツチ族という用語の使用も、"差別的ふるまい"と同様、今では御法度となっている。政府設立のルワンダ遺族基金には国庫収入の5パーセントが充てられ、数え切れない未亡人や孤児のための基金を支えている。急速に成長はしているが、今なお国は復帰途上にある。国の人口レベルはまだ1994年当時に戻っておらず、汚職や近隣諸国との紛争(コンゴにおける内戦の関与)など次々に問題に直面している。そして貧困水準はサハラ以南でもっとも高い国の1つだ。


※フツ族もツチ族も同じところに住み、同じ言葉を喋り、同じ宗教を信じ、人種間結婚もしていたので、歴史家や民族学者たちは、フツ族とツチ族を完全に異なる民族集団ととらえることはできないとしている。
より詳しく知りたい方は…
フィリップ・ゴーレイヴィッチ(著) 柳下毅一郎(訳) WAVE出版
各1680円(税込)
ジェノサイドの丘〜ルワンダ虐殺の隠された真実(上巻) ジェノサイドの丘〜ルワンダ虐殺の隠された真実(下巻)
ポール・ルセサバギナの実像
1954年6月15日、ルワンダ中南部のムラマ-ギタラマで農業を営む両親のもとに生まれる。75〜78年までカメルーンで神学を学び、79年にサベナ社に雇われ、アカゲラ国立公園内のホテル・アカゲラのフロントオフィス・マネージャーに就任。ここで初めて観光・ホテル・ケータリング産業を学び、80〜84年にかけてナイロビのケニヤ・ウタリー大学でホテル経営を学ぶ。その後再びサベナ社で働き始め、84年10月から93年11月までミル・コリン・ホテルの副総支配人を勤める。93年11月に、同じキガリにあるディプロマト・ホテルの総支配人に抜擢された(ベルギー系企業でルワンダ人がここまで出世した例はかつてない)。現地の問題により、94年3月にやっとディプロマトのオフィスに移るが、大虐殺の発生でミル・コリンのオランダ人マネージャーが帰国することになったため、ミル・コリンの管理をまかされる。結果的に、ルセサバギナは100日間にわたるジェノサイドのほとんどをミル・コリンで見届けた。事態が少し収束に向かい始めた94年7月、オランダ人マネージャーのルワンダへの帰国に伴いディプロマトに戻り、そこに96年の9月までいて、その後ベルギーに亡命した。ベルギーでは重量物運送会社を経営している。
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